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Piet Bos
日本占領期間中の体験 
ピート ボス、2002年10月

 

 

 

 

私の名前はピート ボスと申し、1927年全蘭領東インドのスラバヤで生まれました。1942年から45年にかけて、もしくは

日本により押し付けられた特殊な時代の計算に従って2602年から2605年というべき、日本占領期間中における私の体験を皆

様にお話しする機会を得たことを嬉しく思います。

以前から国家の関心が蘭領東インドにおける石油生産にあることが分かっていたもので、日本の脈絡は明白となりました。征服を見

通した中国と他の東南アジアの国々における日本の戦争は途方も無い石油量を必要としていました。蘭領東インドを離れた吉沢氏引

率の日本代表団は石油採掘の権利入札に失敗しました。日本代表団出発後の午後、私の父の所見を私は思い出します:戦争になるだ

ろうと。残念ながら彼は正しかったのです。ワシントンにおける交渉が未だ進行していた一方で、1941年12月7日真珠湾攻

撃で戦争が勃発しました。1942年3月8日インドネシアの蘭印軍は包囲されました。日本軍がこの国を接収して間も無く、彼等

は古い行政の全ての証跡を消去し始めました。公式にはオランダ語を話す事は許されず、我々の学校は閉鎖されました-が、不法の

学級はありました-我々は登録させられ、腕に紐を巻き、ラジオは我々に外国放送を聴かせないよう封印されてしまいました。日本

兵が日本の天皇の代理として考慮される事、そして結果として我々が遭遇するどの兵隊にもお辞儀をしなければならなかった事が初

めの頃我々には理解出来ませんでした。最初はこれが多くの殴打の起因となりましたが、我々は直ぐ学びました。初めの日々は高級

官僚達が検挙されそして監禁されてしまいました。7月には16歳以上の全オランダ人がそれに続きました。

8月日本の民間職員が到着し、我々は自分達の家を離れなければなりませんでした。1組の敷布と食卓用道具、そして又自分達の衣

服とオランダの本を持参することは出来ました。2日以内、時にはそれより短い間に出発しなければなりませんでした。我々は自宅

に滞在が許されていた友人達の所へ引っ越しました。それがその後何度したか分からないほどの我々の最初の引越しでした。

2ヵ月後我々は鉄条網で囲まれ、後でそこに竹製のマットが加えられた保護地区に移されたので、外部で何が起こっているのか

を目にすることや、外部の人々と話す事も出来なくなってしまいました。にもかかわらず我々は多少の余分な食糧を得る為、インド

ネシア人達と宝石や織物を交換しました。日本人監視人がこの取引を知った時、抑留者達は罪人自身が諦めて酷い殴打とその後灼熱

の太陽の下で檻に入れられる事に委ねるまで、点呼に出なければなりませんでした。特に女性収容所での子供達にとって、これは試

練で、泣き始めたり走り回ったりした時は、母親が殴打されました。武士道によれば子供達は殴打されるべきではないと知りました

が、それにもかかわらず彼等にひもじい思いをさせたままにしていたことは不思議でした。密輸業者とは別に収容所の人々には1~

2日食事抜きという罰則が適用されました。出来上がった食事でさえも捨てられそして埋められました。これらの出来事は人々を絶

望的な境地にさせました。こんな風で、食糧は質と量の双方とも甚だしく不十分でした。1日の費用は、火炊き用の木材を含めて兵

隊の給料を超過してはなりません。

1944年3月、軍隊が収容所の指令を引き継いだことで、定量がもっと少なくなり、それは又インフレと食糧不足の為でもあり、

大勢の農夫がビルマとスマトラの鉄道建設用の労働者として日本軍隊に奉仕する事を強制されたことで彼等自身の農場で働くことが

出来なかったからでした。収容所の中は飢えがありましたが、それは又インドネシア人達の間の問題でもありました。

日本は1942年「大東亜共栄圏」を約束しましたが、それは失敗に終わりました。蛋白質の欠乏は感染に対する不十分な守備によ

り治癒不可能な全身水腫傷(体内の水分集積)突発を生じました。ビタミンの欠乏は盲目、麻痺、足の白熱感を起こし、人々はその

焦熱から免れる為夜中中目覚めたままで眠る事が出来ませんでした。規定食には脂肪が無く、炭水化物はむかつくような味の粥に含

まれていました。我々は必要なカロリー摂取量の約3 分の1 を取っていました;そして重労働になればそれは約5分の1の計算とな

ります。インドネシアに居た8万人のオランダ人民間拘留者達から約1万2千人が餓死しました。この粗末な状況で赤痢などに感染

した場合、適当な医薬品が揃っていなかったことで一層のこと、治癒は実に困難でした。赤十字社から送られた医薬品は小さく、収

容所連に分配されるには不十分な量でした-もし届けばの話ですが。私が居た少年収容所では殺菌剤といくらかの薬がありましたが、

いかにしてオランダの収容所-役人達がそれを保持していたのかは、私には未だ神秘です。    

私は赤痢病棟で床掃除や患者達用のトイレが無かったので、寝室用便器の掃除をして働いていました。殺菌剤のお陰で私は赤痢には

ならなかったのですが、最後には風疹にかかりました。私は病院として供給された大きな家の背後にある従業員宿舎に住みました。

その利点は点呼に欠席できた事と日本兵達が感染性伝染病棟を恐れていたので、殆どそこへは危険を冒してまでも来ることはありま

せんでした。

1944年11月11歳以上の少年達は住んでいた女性収容所から少年収容所に連れ去られました。幼い少年達の母親連にとって自

神武紀元のの設定で神武天皇が紀元前650年をもって即位元年としたことから逆算して、

1942年+650年=2602年、と計算したことによる。

分達の可愛い子が出て行くのを見るのはとても辛いことでしたが、母親連と少年達はお互い強い絆で結ばれ続けていました。

一般的に女性達の姿勢には尊敬するものがありました。監視人達は女性の意気を崩す事が出来ると思っていたようですが、大抵は失

敗に終わっていました。1945年1月には10歳の幼い少年達が母親から連れ去られました。収容所で衛生を維持する事は困難で

した。虱は本当に害虫で、それに対する殺虫剤を我々は持っていませんでした。我々が収容所長に苦情を訴えた時、彼は我々に日に

20匹の虱をを捕まえ、夜の点呼でそれらを監視人に手渡すよう命じました。確かにそれは功を奏し、後では日に20匹の虫を捕ま

える事が難しくなり始めました。日本兵は我々の感情を掻き回す風変わりな測定標準を考えつきました:その数を満たせなかった家

の少年達はお互い面と向かって2列に並ばされ、反対側の少年を殴り始めるのです、酷い窮地、なぜならもし監視人が満足しなかっ

た場合は、彼が良い見本を与えるので、それは一層事を悪くするというものです。監視人は良く訓練されていました、というのは兵

隊達も何か間違いを犯した時は殴打を受けたからです。

1945年8月突然多くの食糧を得、日本軍は彼等の規律を緩め、終には赤十字社物資小包を受け取りました、少なくともそれらの

内のいくつかを:1個の小包は5人に割り当てです。収容所中を取り巻いた噂では戦争が終わったとの事。そして確かに、8月18

日日本人収容所長は我々に日本が降伏し戦争が終結した事を伝えました。しかしながら我々には収容所を離れる事が許可されず、そ

れはインドネシア人達が彼等の独立を申し立て、道路でオランダ人を目にしたがらなかった為でした。収容所で生き残った多くの人々

が確かにその時インドネシア人達によって殺されました。一般健康状態はかなり貧困で、更に半年の拘留生活は生存者の命の50%

を取り去ってしまうに違いありませんでした。我々の生命を救うのに相当多くの日本人だけでなく、又外国人労働者、長崎のオラン

ダ人達を奪取したことは遺憾な事です。戦争とは諍いを解決する恐ろしい方法です、悲しいかな未だかなり多くの人々が戦争は良い

事、冒険的で英雄的だと思っています。

我々はいかにして抑留生活から生き残ったのでしょうか? 運良く、私はオランダ人の素晴らしい指導者が居る収容所に着陸したよ

うで、彼は日本人司令官と適度に仲良く付き合っていたので、他の収容所では準備できなかった薬品を得ることが出来たのです。こ

の収容所の指揮は厳しく正当でした、買収は全く無く、全員同じ様に食事を分け合いました。少年達は2 人から5 人で連帯責任グル

ープの仲間を作り、お互い出来得る限り助け合い、悪いニュースを持った者を慰め、病気の者を看護し、孤独を感じる者には安らぎ

を与える等。そして1 度限り:将来を信じそして状況にユーモアを見出す事を忘れてはなりません。